222 名前:向田邦子 投稿日:2000/10/14(土) 02:58
ハショウフウ、という言葉が怖かった。
今では、かかる人もほとんどいないのだろうが、子供の頃は、割合身近な病気であった。
買い物から帰ってきた母が、祖母と
「角の××さんの所のお兄ちゃん、傷口から菌が入って亡くなったんですって…」
「あぁ、ハショウフウは怖いねぇ」
などと話しているのを幾度となく聞くうちに、ハショウフウ=死、という
イメージを抱いたのだろう。ちょっとでも傷を作ると、死んでしまうかも、と
口には出さずにびくびくしていた。
ある時、珍しく父が子供たちを釣りに連れて行ったことがあった。
川に向かうまでの道は、草木がはえ放題で、子供には難儀な道であった。
ふと、父が歩みを止め
「この草が血止め草というもので、傷口によく揉んではりつけるといい。
殺菌にもなるから、覚えておきなさい」
と教えてくれた。よく見ると、どこにでもはえていそうな草だった。
それからは転べば血止め草、手を切れば血止め草と、とにかく血止め草に
思えるものを傷口にあてるようになった。
果たしてそれらが血止め草であったか、血止め草であっても
本当に殺菌効果があったのかは定かでないが、どうにかハショウフウには
かからずに済んだ。
ハショウフウは『破傷風』と書く、と知ったのは、女学校にあがった時分だった。
何だかうなされたような気分で目覚めると、私は虫になっていた。
虫、と認めたくはないが、目に映る手足は、合わせて6本。背中の感触も、何となく硬い。
どう考えても虫である。自分が虫になったというのに、何だかなつかしいような、
かなしいような、おかしいような、奇妙なものがこみあげてきた。
ハショウフウだ。
私の節目だらけの褐色の腹は、子供の頃に想像していた、破傷風の傷口にそっくりだった。
こんもりと盛り上がった部分はてかてかとし、ケロイドのようである。
私は慌てて、血止め草を探そうとした。
血止め草は、どこにあるのだろう。
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